フーゴ・バル(Hugo Ball, 1886〜1927)


純然たる抽象であるものと具体的なものとをわける基準。抽象の危険は、いつだって叫ばれている。
それが何かを了解するには、基準が必要なのだ。この基準はめいめいの意識のなかにある。
語る主体の感情にあるもの、何らかの度合で感じられているもの、それが意義である。
それなら、こういっていいことにならないか。現実的に具体的なものを言語の中に捉えるのはまったく容易ではないが、
それは感じられているもののことだと。そしてそれが、何らかの度合で表意的であるものにひとしいのだと。
フェルディナンド・ソシュール、前田英樹訳注『ソシュール講義録注解』p.69 、1991年、法政大学出版局

行為のほうが、実験よりもはるかに重要だ。抵抗物を見分けること、それには鋭敏な眼がありさえすればよい。
そのほか、抵抗物に浸透し、それを解消するには、造形力が前提となる。ひとつの問題のほんとうのむつかしさと独特な点は、
最終的な決めてが要求されるところで初めて生じてくる。ダンディは、そのような決めてを一切嫌う。決断を回避しようとする。
ダンディは、自分の弱みを告白するよりは、むしろ強さを野蛮さとしてこきおろすことに興味を覚えるだろう。
フーゴ・バル『時代からの逃走』p.133 邦訳、1975年、みすず書房



4. ダダにおけるバルの作品〜音響詩KARAWANE〜

 バルはカバレー・ヴォルテールを開き、ダダの活動拠点として提供するのみならず、自身も積極的にパフォーマンスを行った。
ここでは、1916年に発表された一連の音響詩のうち、作品「KARAWANE」(隊商の意)を取り上げ、バルの言語への取り組みを考えてみたい。



KARAWANE(1916)


 器楽音楽は、ことばにならない感情感覚をメロディ、リズム、ハーモニーといった要素を組み合わせることで表現する。音楽が文学と
比較して、より抽象的な表現であることはあきらかだ。その文学と音楽を併せた表現−それは音やことばを描こうとしたカンディンスキーの
絵画であったりしてよい−が、バルの夢想した抽象と具体の幸福な結婚であろう。まさにこの「KARAWANE」(画像)ではそんなバルの藝術に
対する試みがなされている。詩はそもそも、きわめて音楽的な文学手段と考えられるが、ここでのバルはその音楽性を極めて高めている。
というとなんだかずいぶん大層に聞こえるかも知れないが、要はここでのバルは完全な抽象詩への到達を果たしているのだ。
 「KARAWANE」の完成は、くしくものちにメルロー=ポンティが指摘する「オノマトペの素朴な理論」への信仰に基づいたものといえる(註1)。
バルの妻へニングスは、歌手であり、バル自身も彼女の伴奏者としてピアノを弾いていた。「オノマトペの素朴な理論」とは、唄、あるいは
音楽を信じることにかなり近い。音楽は、楽音やリズムといったものを信じて表現するからである。「KARAWANE」は隊商の行進を音の響きで
描いている。音楽に対する批評や、絵画に対する批評が、文学に対する批評よりはるかに困難であることが分かるように、この「KARAWANE」
という作品は、読者が声を出して文字列を読み、作品に参加しなければ、その価値を知ることが難しい。ああ、おもしろい、と言って、
笑えるか、これは詩ではない、と打ち棄てるか、それがまず大方の読者のとる態度であると考えられる。

丸山圭三郎は、詩人たちについて次のように言う。

詩人たちの営為は、関係が物化して私たちを支配し操作する日常の表層世界、一義化され極度に合理化されている制度、
画一化された価値観、等々を否定する実践であり、・・・・・<異化>という芸術手法、すなわち私たちの無自覚的、惰性的生活において
信号の様相を呈している言語によって、心身が自動機制化され条件反射の道具に成り下がっている人間を、蘇らせる試みとも言えよう
丸山圭三郎『言葉・狂気・エロス』p.103、講談社、1990年

 丸山の指摘するとおり、バルはこの点において、まさしく詩人の営為を深く実践したのであり、音響詩という詩的創作の窮極的な方法に
たどり着いたことからも、彼が「ことばを蘇生させる」ことを目指したと判断できる。この「KARAWANE」に、ことばを信じるバルの力強い、そして
ささやかな決意を、見出すことができよう。


5. 付記 ダダ以降のバル

1916年、雑誌『カバレー・ヴォルテール』の発表、音響詩「KARAWANE」「Gadji beri bimba 」を実演しダダとしてのバルの活動は最盛期を迎えたが、
翌1917年(チューリヒ・ダダの実質的な活動の幕開けとなる年にあたるが)バルはツァラたちの過激な活動に付いていけず、また財政的な問題もあり
バルはチューリッヒを去りベルンへと移った。バルはむろんダダの乱痴気騒ぎに失望したのだが、無邪気なニヒリストにはなれず「ダダ運動に訣別した後、
隠者、聖者と噂されながら、禁欲と極貧のうちに、超自然の理性と恩寵を求めてビザンチンのキリスト教研究に没頭」し「人間と動物と植物との
親密な交わりを信じ」ながら、「病のため四十歳余の若さで」(註) 亡くなる。その短い生涯の間、言語とその表現から離れることはなかった。


                                                             (了)

(註1)メルロー=ポンティ『知覚の現象学』邦訳、1967年、みすず書房
(註2)フーゴ・バル、土肥・近藤共訳『時代からの逃走』p.288、1975年、みすず書房